原田忠吉 ふる里と私の人生

ふる里と私の人生

原田忠吉 宮沢(行沢出身)
(有)原田工務店 代表取締役 首都圏尾花沢会 会長

東には翁山、南に御所山、西は出羽三山という大自然に囲まれ、冬は銀世界となる正に山紫水明の地尾花沢(宮沢)に、昭和14年に生を享け順徳天皇の眠るという三吉ヶ原に所在する宮沢中学で学び育ちました。春には、木の芽やウド等の山菜狩り、夏は丹生川の澄み切った水を浴びて泳ぎ、秋には栗拾い等に興じた幼い頃が懐かしく思い出されます。

生家は、二代にわたる大工職人でありましたから、父を師匠として大工見習をやることになりました。昭和20年の終戦から十数年を経て、衣食の状況も少しは良くなったころでした。この修業は、師匠とは親子とは言え極めて厳しいものでしたが、それだけにまた一方では、大変恵まれた仕事に従事させてもらい、多くのことを学ぶことができました。深く感謝しております。宮沢上の宿にある御所神社の神主の建物は、屋根は京都御所の様な入母屋造り、二重化粧垂木という建築でした。その他、銀山温泉の木戸佐々エ門(能登屋)の新館等立派な建物も勉強する事ができました。また、一寸珍しい曳屋工事(家屋等を壊さず別の場所に移す工事)の際には、宮沢・玉野・常盤の各地区で大変お世話になり勉強させてもらいました。

昭和33年頃上京し、東京下町と言われる隅田で、慣れない都会生活に苦しみながら、修行に励みました。生活習慣の違う周囲との調和と、仕事の厳しさの苦労は、並々ならぬものがありました。東京に出たからには、東京で働き東京で一人前の生活ができるようになりたい一心で頑張ってきました。つらい時には、いつも生れ育ったふる里宮沢を想い起こし、自分を励ましてきました。誠実な努力の積み重ねは、必ず報われると信じております。

お蔭様で今では、建築主であるお客様と長い親戚つきあいをさせて頂いております。毎年6月には「さくらんぼ」を7月には尾花沢の「西瓜」をお得意様に差上げ喜んで頂いております。同期の皆さんとは、ふる里では7回の同期会が行なわれ、又首都圏では、上野公園中心に毎年4月第一日曜に集まって観桜がてら20数名で楽しんでおります。年も50才すぎた頃過去の人生を教訓としながら家業も法人化しました。首都圏尾花沢会には発足当地から出席し、第13回総会を経て事務局長に任命され現在に至っています。理事長を8年間勤め、第27回総会にて第5代会長に選任されました。尾花沢市・首都圏尾花沢会の関係者に支えられながら、小学6年生のときの恩師である押切マチ先生(現渋谷マチ氏)との約束を胸に秘め頑張っております。

最後におばネットを通じ皆様に御挨拶できることを心から感謝申し上げ、ふる里尾花沢市の益々のご発達をご祈念申し上げます。

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